光善寺駅の足元に、1400年の歴史があった!中振北遺跡に眠る、古代から中世へのまちづくりの足跡

枚方市議会議員 ばんしょう映仁です。

 2025年11月1日は、中振北遺跡 第8次調査 現地説明会に行ってきました。

 

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中振北遺跡 第8次調査 現地説明会
光善寺駅近隣の市街地の足元に、こんな歴史が眠っていたなんて🙀

 光善寺駅の西側で再開発が進んでいることは、地元の方ならご存じの方も多いと思います。実はその工事の合間に、枚方の“昔”を物語るような遺跡が見つかっています。名前は「中振北遺跡」。私も最初は「遺跡って、そんなにすごいものが?」と思っていたんですが、調べてみると、これがなかなか興味深い。

 古墳時代から奈良時代、そして中世にかけて、ここには人が住み、町ができ、生活が営まれていた痕跡が残っているそうです。しかも、出土した器や井戸の跡からは、当時の人たちの暮らしぶりや、町の発展の様子まで見えてくるんだとか。

 この記事では、僕なりに調べたことを、時代の流れに沿ってまとめてみました。枚方のまちがどんなふうに形づくられてきたのか、ちょっとだけタイムスリップしてみましょう!

 

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現在事業中「光善寺駅西地区第一種市街地再開発事業」の状況については👇️でご確認ください

 

 

 

 

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1.古墳時代後期〜奈良時代:土地利用の始まりと宅地化の兆し
「この場所は、古墳時代から人が使ってたらしい!」

 今回の発掘調査資料を読んでみて、まず驚いたのが「この場所、古墳時代から人が使ってたらしい」ということ。古墳時代後期、つまり今から1400年以上前には、すでに土地利用が始まっていたそうです。

 

奈良時代(8世紀頃)には宅地化

 

 さらに奈良時代(8世紀頃)になると、宅地化が進んでいたとのこと。つまり、家を建てて住む人がいたということだそうです。淀川にも近く、交通の便が良かったことが関係しているのかもしれません。私自身、正直こういう歴史には詳しくないんですが、枚方のまちがそんな昔から人の暮らしの場だったと知ると、なんだか誇らしい気持ちになります。

 

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2.平安時代後期〜鎌倉時代:町の整備と区画の形成
13〜14世紀に、町が計画的に整備されていた!

 時代が進んで平安時代の終わり頃から鎌倉時代にかけて、この地域では町の整備が進んでいたようです。調査では、幅2メートル・深さ80センチ・長さ17メートル以上の大きな溝が見つかっていて、宅地を区画するためのものだったそうです。

 その溝の北側には「土橋状の通路」もあったらしく、今でいう歩道みたいなものだったとのこと。柱穴の並びも見つかっており、柵や塀の跡らしいです。こうした構造が13〜14世紀頃まで使われていたと考えられていて、当時の人たちがちゃんと町を整えて暮らしていたことが分かるようです。

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3.室町時代:都市的な発展と経済・文化の成熟
この町は、けっこう豊かだった!

 さらに時代が進むと、町はもっと都市的に発展していきます。建物の柱穴が何度も重なって見つかっていて、建て替えが繰り返されていたことが分かるそうです。井戸も同じ場所に何基も重なっていて、長く使われていたことがうかがえます。

 出土した器には、日常使いの土師器や須恵器のほか、漆器椀や中国から来た青磁・白磁などの高級品も含まれていて、「この町、けっこう豊かだったんじゃないか」と思われています。私は器の名前はあまり詳しくないですが、当時の人たちの暮らしぶりが垣間見えるのは興味深いです。

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4.宗教とまちの結びつき:蓮如と光善寺の建立
浄土真宗・蓮如上人が光善寺を建立したこととも密接につながっている

 そしてこの町の歴史には、宗教も深く関わってきます。浄土真宗の蓮如上人がこの地に出口御坊(今の光善寺)を建てたのは、中世後期のこと。交通の要所であり、町として発展していたこの場所が、布教の拠点として選ばれたのだろうと言われています。

 光善寺は今でも地域の方々に親しまれているお寺ですが、そんな歴史的背景があると知ると、また違った見方ができそうです。宗教とまちづくりがつながっていたというのも、私にとっては新たな発見でした。

 

 

出典
  • 中振北遺跡第8次調査 現地説明資料

 

  • 枚方市プレスリリース【中世の『中振町』遺跡発見】

  • 光善寺ホームページ

 

 一人ひとりが笑顔、ひらかた万笑!

 

 今回、蓮如上人について調べると、子どもの多さに驚くとともに、「教え」だけでなく、「土地を選ぶ目の確かさ」に強く感心しました。蓮如上人は全国を転々としながら布教を続けましたが、そのたびに拠点とした場所が、のちに重要な地となっているようです。

 その最たるものは、晩年に建立した石山御坊(石山本願寺)は、後に豊臣秀吉が大阪城を築く場所となります。淀川の河口に近く、水上交通にも守りにもすぐれた地形で、信仰と政治の両方の中心に発展していきました。

 蓮如上人はただの宗教家ではなく、時代と地勢を読む先見の明を持った人物だったのではないかと思います。そうしたことからもこの時代この光善寺駅周辺は栄えていたのでしょう。京都と大阪のちょうど中間に位置した当時の交通の要所であり、ここを選んだことで、西国一帯への布教の道が大きく開かれたと考えられます。

 こうした時代背景が、今を生きる市民一人ひとりを笑顔にすることとどのようにつながっていくのか、地政学ということを理解しながら、地表面はその時、その時代に合わせた活用が発展につながるということでまとめておきます。下記、蓮如上人をチャットGPTに助けを求めながらまとめましたので、こちらもご確認ください。

 

 

 

蓮如上人とは?

 

 枚方市内に複数ある蓮如上人に関係する石碑。一体どんな人物だったのか?

写真は西本願寺の蓮如上人像

 

1.生涯と背景
  • 蓮如上人(1415〜1499:享年84歳)は、浄土真宗の開祖・親鸞聖人の曾孫で、本願寺第8世の住職
  • 室町時代の戦乱や社会不安の中で、庶民にもわかりやすい言葉で阿弥陀仏の救いを説き、多くの信徒を集めた
  • 京都・山科や越前・吉崎などで活動し、のちに現在の大阪府枚方市に出口御坊(でぐちごぼう)を建立。西国布教の拠点とした
  • 家族も大変多く、妻5人・子ども27人(男子14人・女子13人)をもうけ、その子孫がのちの本願寺の発展を支えた

 

2.教化活動と思想
  • 教えを平易に説いた「御文(おふみ)」を全国の門徒へ送り、親鸞の教えをわかりやすく伝えた
  • 「南無阿弥陀仏」と唱えることで誰もが救われるという、平等で実践的な信仰を重視
  • 僧侶中心でなく、庶民も参加する信仰共同体を築き、浄土真宗を全国に広めた

 

3.石山本願寺とその後の影響
  • 晩年には大阪(当時の摂津・石山)に石山御坊(石山本願寺)を建て、真宗の中心とした
  • 彼の没後、この石山本願寺は織田信長との石山合戦(1570〜1580)で10年間戦い抜いた
  • 戦いののち、本願寺が退去した跡地に豊臣秀吉が大阪城を築いたため、石山本願寺は大阪城の前身となった
 
出典(チャットGPTにまとめてもらいましたが、その出典を聞いたところ。。。)
  • 蓮如上人御伝記(れんにょしょうにんごでんき)
     — 本願寺の正史として編まれた伝記。蓮如上人の生涯・布教・家族構成などの基本資料。
  • 『本願寺史 近世篇』本願寺出版社、1980年
     — 石山本願寺の成立と、信長との石山合戦、その後の大阪城への発展について詳述。
  • 『蓮如 上人の生涯と教え』(本願寺出版社、2002年)
     — 子どもの人数(妻5人・子ども27人)や各地での布教活動の詳細を紹介。
  • 『枚方市史 第1巻』(枚方市教育委員会、1973年)
     — 出口御坊(現・願生寺)について、蓮如上人の滞在と西国布教の拠点としての役割を記載。
  • 『新訂 日本史辞典』(角川書店、1997年)および『日本人名大辞典』(講談社、2001年)
     — 蓮如上人の生没年、教団史上の位置づけ、主要年表の確認に使用